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小石原焼、高取焼について

小石原焼と高取焼には歴史や伝統技法などそれぞれに特徴があります。

今回はこの時代を超えてもなお生活の中で使用されている2つの陶器についてみていきたいと思います。

小石原焼

陶磁器では日本で最初に伝統工芸品に指定されたのが小石原焼です。

現在は合併して福岡県東峰村になりましたが、小石原焼は400年以上の歴史を持ち、旧小石原村には50軒以上の窯元があります。小石原の中心を縦断する国道211号線沿線にいくつもの窯元が並び、「陶芸ロード」といわれています。国道から少し山側に入ったエリアを皿山といいますが、実はこの皿山が小石原焼発祥の地なんです。

小石原焼は、日用雑器として使用されながらも美しさを確立しました。

小石原焼の歴史

小石原焼の起源は、1669年(寛文9年)白旗山(飯塚市)から掛勤めで鼓釜床にきていた初代高取八蔵の孫である八之丞が中野(大字小石原皿山)で陶土を見つけ移り住んで、擂鉢や甕類を焼きました。

その後、1682年(天和2年)に黒田藩三代藩主光之が肥前伊万里の陶工を招き、八之丞と共に大明(中国)の製法にならって磁器が作られます。製品は民用の日用雑器で、当時小石原焼は中野焼と呼ばれていました。
中野焼は一時途絶えたと思われていましたが、享保年間の末(1729年頃)高取焼にならい再興され、磁器から陶器を作るようになります。


1835年(天保6年)「筑前国続風土記拾遺」によれば、「産物中野にて陶器を製す。酒壺、花器、茶瓶、擂鉢、井樋などの類・・・」とあります。


1901年(明治34年)の統計資料によると、窯元は10戸、共同登り窯2基とあり、当時から窯元は共同体的生産構造で、家内手工業的生産形態を長く維持してきました。

小石原焼の大きな転機となったのは、第2次世界大戦後から始まりました。敗戦後の物資不足から、擂鉢、甕類などの荒物の需要が拡大し、1948年(昭和23年)に九州民芸協会が設立された頃から九州における民芸運動が活発化して、小石原焼が広く民芸陶器として消費者に受け入れられるようになります。
1958年(昭和33年)ブリュッセルで開かれた万国博覧会日本館第3部において、小石原焼がグランプリを受賞し、「用の美」としての脚光を集めるようになります。

1960年(昭和35年)には日本民芸協団により日本工芸館小石原分館が皿山に建てられました。(現在の小石原工芸館)1962年(昭和37年)10月に民陶祭が初めて開催されています。


昭和40年代に入ると活況期を迎え、窯元数はこの10年間に約15戸増加しました。この頃には、原土粉砕機や電動ろくろ、土練機など機械化が進み生産量も増えて、共同窯から個人窯が増え、市場は全国に広がり、製品は受注生産型から見込み生産型に変わります

1975年(昭和50年)に陶磁器として初めて通産省の「伝統的工芸品」に指定されます。

1983年(昭和58年)ごろからの好景気で消費が拡大し、小石原焼は生産のピークを迎え、このころ窯元数が約15戸増えました。昭和35年ごろは9戸であった小石原焼窯元数は、現在50戸にまで増えました。


1987年(昭和62年)に小石原焼古窯跡発掘調査が始まり、1989年(平成元年)文献の記述を裏付ける貴重な絵付磁器の出土品が発掘されます。1998年(平成10年)には、小石原焼の博物館小石原焼伝統産業会館と道の駅小石原「陶の里館」がオープンしました。

現在窯元数は沈滞し、生産量も減少傾向にあります。約350年前の江戸時代に起こった小石原焼は、時代の流れの中で繁栄と沈滞を繰り返しながら、絶えることなく庶民の生活雑器を作り続けています。「土と炎と技」が創り出す伝統を守りながら、生活の器として愛される小石原焼は今、手仕事が見直される時代でもあります。

http://toho.main.jp/koishiwarayaki-rekishi.html 東峰見聞録 “小石原焼の歴史”より

小石原焼の特徴

生活雑器としての道を歩みながら、「用の美」を確立した小石原焼。

飛び鉋刷毛目櫛目指描き流し掛け打ち掛けなどの技法で表現される独特の紋様が特徴で、素朴で温かい風合が持ち味です。多くの窯元後継者は、伝統の技を受け継ぎながら、小石原焼の発展を願って、新しい作風にも挑戦しています。

飛び鉋
生乾きの生地に化粧土をかけた後、ロクロで回転させながら、湾曲した鉋で化粧土部分を削り取って模様をつける技法で、鉄分の多い小石原の陶土の特徴を生かしています。

刷毛目・櫛目
化粧土をかけてすぐ、ロクロを回転させながら刷毛や櫛を当てて模様をつける技法です。

指描き
化粧土をかけてすぐ、ロクロを回転させながら指で模様をつける技法です。

流し掛け
ロクロをゆっくりと回転させながら、壺などの側面に釉薬や化粧土を等間隔に流していく技法です。

打ち掛け
成形した作品に、釉薬を盃などに入れて少しずつ浴び掛ける技法です。

ぽん描き
竹の容器の口から流れ出る釉薬を調整しながら一気に描きあげます。

http://toho.main.jp/koishiwarayaki-tokucho.html 東峰見聞録 “小石原焼の特徴”より

【小石原焼伝統産業会館】
小石原焼の歴史や伝統技法、古窯跡発掘調査の出土品や窯元の代表作などを展示する博物館です。
併設の体験棟では、手びねりや絵付けの他、陶芸教室も定期的に開催しています。
平成20年10月には、敷地内に新しく登り窯が完成し、常時見学することができます。
住所:東峰村大字小石原730-9
☎0946-74-2266

http://toho.main.jp/koishiwarayaki-tokucho.html 東峰見聞録 “小石原焼の特徴”より

立寄りスポット

小石原ならではの登り窯をイメージした建物の中には、小石原焼・高取焼の窯元の作品が一堂に展示販売されている「陶の里館」農産物直売所レストラン「こだち」があります。

東峰村ドライブの立ち寄りスポットとして、道の駅「小石原」は便利です。

高取焼

「綺麗さび」と表現される遠州七窯の風格を今に伝える高取焼。

約400年の歴史のある「高取焼」は、茶道の道具として永く人々に愛されてきました。高取焼の特徴は、薄い作りと伝統の釉の色合いにあります。鬼丸雪山窯元では採土に始まり、木灰やワラ灰も手作業による製法にこだわり、薪窯の炎で焼成することで、時代を越えて生き続ける陶器を作っています。

高取焼の歴史

高取焼の歴史は、文禄・慶長の役から帰国した黒田長政が陶工八山を渡来させて、福岡県直方市鷹取山麓に永満寺宅間窯を築窯させたことに由来します。

その後、直方市内ヶ磯窯、山田陶人谷窯、飯塚市白旗山窯へ変遷する中で、茶人小堀遠州の指導を得て茶器の製作をはじめ、遠州の美意識であります「綺麗さび」による薄作りで優美な「遠州高取」と称された高取焼が生まれました。

民芸陶器の里として親しまれている小石原も、その一時代に位置し、寛文年間に鼓で茶陶を、そして皿山中野の地で生活器を中心に産出したのに始まります。筑前黒田藩の御用窯の源流となる小石原の茶陶は、その後現在に至るまで、遠州七窯の一つとして、広く茶人に愛されてきました。

http://takatoriyaki.com/ja/overview 2020 高取焼鬼丸雪山窯元より

高取焼の特徴

遠州七窯の一つで、遠州高取の風格を今に伝え「綺麗さび」の世界を確立した高取焼。

陶器でありながら磁器のような薄さと軽さが持ち味で、精密な工程、華麗な釉薬、きめ細かく繊細な生地が特徴。特に鉄さび藁灰木灰長石を原料として微妙な調合で作られた釉薬を駆使して焼成される茶陶類は、気品に満ちあふれています。

近江小室藩主(1万2千石)で江戸初期の大名茶人。近江の国に生まれ、幼少の頃より父新介正次の英才教育を受け、千利休、古田織部と続いた茶道を受け継ぎ、徳川将軍家の茶道指南役となりました。

1608年(慶長13年)駿府城作事奉行をつとめ、その功により諸太夫従五位下遠江守に叙せられ、これより「遠州」と呼ばれる。 書画、和歌にも優れ、王朝文化の理念と茶道を結びつけ、「綺麗さび」という幽玄・有心の茶道を創り上げました。
遠州は、高取・丹波・信楽・伊賀・志戸呂など国焼の茶陶の指導にも偉大な足跡を残しています。

その七つの産地は、高取焼(筑前)、志戸呂焼(遠江:遠州)、膳所焼(近江)、朝日焼(山城)、赤膚焼(大和)、古曽部焼(摂津)、上野焼(豊前)です。

http://toho.main.jp/takatoriyaki-tokucho.html 東峰見聞録 “高取焼の特徴”より

髙取焼の分類

髙取焼は幾度も移窯・増窯を経てきた窯で、その変遷に伴い作風にも違いが見られるため、これらの変遷は古髙取、遠州髙取、小石原髙取、東山髙取、西山髙取の5期に分類されています。

髙取焼の窯歴(五期)

永満寺宅間窯(えいまんじたくまがま) – 慶長7年(1602)

髙取焼の第1番目の窯で、藁灰釉や飴釉の掛かった、素朴で力強く、伸び伸びとした作品が伝世しています。窯址の調査報告書によると大小の碗類や皿、鉢、壺、甕、片口、瓶、擂鉢などの器も多く出土しています。釉薬の特徴は、窯変により釉薬が海鼠(なまこ)の体表を見るように青白く呈色する例を数多く見受け、「青海鼠」の名称で呼ばれています。

窯址は福岡県直方市大字永満寺宅間(福岡藩の出城の一つだった鷹取城の南山麓あたり)にありましたが、現在は石碑だけが、そこに窯があったことを示しています。

内ヶ磯窯(うちがそがま) – 慶長19年(1614)

髙取焼の第2番目の窯で、歪みや箆削りなど作為性を強調する桃山様式の焼物が多く伝世しています。窯の構造・規模は、焼成室14室、焚口1室をそなえた段階式連房登窯で、全長四6.5メートルの大規模な窯です。

髙取焼研究に重要な影響を与えた窯で、現存する髙取焼の中でも、最も多くの作品が伝わっています。出土陶片から窺えるこの窯の製品は多岐に及び、茶入や茶碗、水指などの茶陶関係の製品以外に、大小の皿、鉢、擂鉢、壺、片口、徳利などの日常雑器、陶人形、漁具、筆立、水滴など生活全般にわたっています。窯址は、鷹取山の北を西流する福地川の渓谷を数キロメートル入った尾根の上に位置したところにありましたが、その場所にダムを建設することになったため、大規模な発掘調査を行った後、状態を損なわないよう埋め戻され、今はダムの下に沈んでいます。

山田窯(やまだがま) – 寛永元年(1624)

元和9年、黒田長政が没すると、髙取八蔵(八山)らが朝鮮への帰国を願い出て藩主忠之の勘気を被り、扶持を召し上げられ嘉麻郡上山田村へ蟄居させられました。少数の門弟らとともに、日常身辺の焼物を焼いたと伝えるのがこの山田窯で、作風は李朝の特徴を残した、大らかで豪壮なものであったと伝えられます。窯址は、山田市大字上山田字木城にあったとされていますが、現在は戦時中の石炭採掘により、一帯はボタの捨て場所となり、完全に埋没しています。

白旗山窯(しらはたやまがま) – 寛永7年(1630)

山田村へ蟄居を命じられてから6年、帰参を許された髙取八蔵(八山)らは、穂波郡合屋川内中村(現在の飯塚市幸袋大字中字野間)の白旗山の麓で新たに築いたのが白旗山窯です。この頃、八山父子は京都伏見の小堀遠州のもとへ茶器制作の指導を受けに行き、生産の主体は茶器におかれます。遠州好みの「綺麗寂び」を体した茶陶を生産したので、この時代の作品を遠州髙取と呼び、染川・秋の夜・横嶽など多くの名品が生まれました。華やかな釉調と軽やかな姿形をした瀟洒な茶陶は、当時の国焼にはない独自の特徴をそなえており、特に釉薬の美しさは、江戸時代の京都の名工野々村仁清も写したと伝えられます。窯址は、白旗山の北麓にある撃鼓神社(別名高宮権現)の境内の馬場脇あたりに位置していますが、現在は周りに民家もあるため発掘調査を行った後埋め戻されています。

小石原鼓窯(こしわらつづみがま) – 寛文5年(1665)

初代八蔵重貞亡きあと長男八郎貞清病弱のため次男八蔵貞明が二代を継ぎ、上座郡鼓村釜床(現在の朝倉郡東峰村大字小石原鼓釜床)に新たに築いたのが小石原鼓窯です。この時代に焼かれた作品は、一般に「小石原髙取」と呼ばれています。明治4年(1871)、廃藩置県にともない藩窯としての役目を終え廃窯しましたが、昭和32年(1957)に髙取静山氏により再興を果たしています。窯址は、現在も髙取家(小石原鼓釜床)の家屋の裏山に遺っています。

小石原中野窯(こいしわらなかのがま) – 寛文9年(1669)

小石原鼓窯が開窯した後も白旗山窯はしばらく存続しており、八山の嫡子で病弱だった八郎右衛門貞清の次男八之丞が住居していて、そこから鼓村へ掛け勤めを行っていましたが、寛文9年に小石原村中野(現在の東峰村大字小石原皿山)へ移り住み、廃藩の明治4年まで小石原鼓窯と東皿山窯へ掛け勤めを行いました。小石原中野窯の原窯とされる中野上の原窯の窯址は現在も小石原皿山に遺っており、草で覆われてはいますが、その古跡を窺うことができます。

大鋸谷窯(おがやがま) – 元禄元年(1688)

元禄元年前後に福岡城の南(早良郡田島村抱大鋸谷)に築窯され、元禄17年の廃窯までおよそ20年間活動したのがこの大鋸谷窯です。この窯では藩主綱政みずから筆をとって茶碗に絵付けを行い、あるいは素焼きの茶器を上方に送って宮崎友禅に好みの下絵を描かせたといいます。確かな所在や出土遺物についてはほとんど不明で、伝存する陶片の多くは細かい破片の状態でしか残っていないようです。

東皿山窯(ひがしさらやまがま) – 亨保元年(1716)

享保というと幕府による「享保の改革」が有名ですが、諸大名の財政事情も厳しかったようです。このとき早良郡麁原村上の山(現在の福岡市早良区西新)に増窯されたのが東皿山窯で、一般に「東皿山」と呼ばれています。主に茶道器を製造する窯場でした。この時から廃藩置県までのおよそ150年間にわたって活動し、髙取家の歴代は小石原鼓窯に半年、東皿山窯に半年と掛け勤めしていました。現在、窯址付近には人家が建ち並び、その古跡を窺うことはできません。

西皿山窯(にしさらやまがま) – 寛保元年(1741)

次に東皿山の西に増窯されたのが西皿山窯で、一般に「西皿山」と呼ばれています。この窯は一般の庶人を対象とした徳利、食器、甕、すり鉢等を製造する窯場だったとされています。

廃窯 – 明治4年(1871)

廃藩置県により多くの御用窯が廃窯となりましたが、小石原中野窯は現在に至るまで生産活動を持続しています。

http://takatoriyaki.co.jp/history/vicissitude/ 窯の変遷より

最後に…

小石原焼も高取焼も、長年の伝統と特徴を、今この時代にもなお継承している陶器であり、また時代の変化とともに、作風を変えつつ新しいアイデアを取り入れながらより良い作品として、これからも幅広い世代に愛されるものとなるでしょう。

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